厚生労働省再編 01
厚生労働省が再編される。
いくつか思うことがある。
まず、現在の厚生労働省はもともとどんな形だったのか。
厚生省と労働省でした。
この二つの役所も江戸時代からあったわけではない。
厚生省は、1938年1月内務省から分離され、発足した。
厚生省の年史などによると、日中戦争などを時代的背景として、「健民政策」が必要といったことから、設置されたとある。
厚生省の所管分野は、旧内務省の社会局という一つの局でほとんど網羅される。
戦前の内務省というのは、今思うと強大な官庁だった。
1873年に設置された当時は、大蔵、司法、文部の三省の所管事項を除く内政の全部が内務省の管理下にあった。
この役所から分離されていった主なものを掲げると、明治期では農林、運輸、逓信といった省庁がある。
大正期、内務省の権限は、地方行政、警察、土木、衛生、社会、労働、神社といったもの。
当時の内務省のいまでいうキャリア官僚は、20歳代で都道府県庁の課長となり、40歳代で知事になった(出向制度)。
地方行政といっても、強力な中央集権で行われていた頃であり、内務省は中央統制を貫徹する具体的な手段として都道府県庁の幹部を独占し、内政の根幹を担った。
筆者もこうした歴史的な経緯の結果、某県の課長として出向した。
中央省庁からの出向者として、農林水産、建設、警察などの方々と交流があった。
既に編纂されなくなったと思うが、「内政関係者名簿」というものがあり、旧内務省系の省庁のキャリア公務員の名前が省庁ごとに列記されていた。
役所的形式主義を red-tape というらしいが、日本の官僚制度には内務省という赤い紐が連綿と続いているといってよい。
1938年、厚生省は強大な内務省から分離されたが、発足当初は内務省からの出向者で構成されていた。
役所の独立、といえばいいのかどうか、各役所は独自の採用ルートを持つことによって元の官庁の人事的影響力から離れる。
この厚生省の労働行政部門を切り離したのが労働省。
1947年の発足。
この国には2度社会党政権がある。
第1回目の社会党政権が片山内閣。
この片山内閣の公約として労働省が設置された。
筆者の印象では、総労働と総資本の対決的な発想と思える。
当時の労働省の関心事項は極論すれば春闘であり、この対決の両当事者、総評、同盟(懐かしいと思われる方もあるでしょうが、大まかには現在の連合にあたります)
と日経連の動向、あるいはその両者の調整ではなかったかと思われる。
特に、高度経済成長期、企業の成長し、売り上げ、利益ともに右肩上がりであったとき、労働者への適切な配分ということでは歴史的な役割を果たしたのではないか。
で、もともと同じ組織(内務省社会局)であったものが分離され、2001年、スリムな官庁といった角度から、中央省庁再編が行われ、再び統合された。
統合された役所の名前が厚生労働省ということ。
役所の中でも議論があったと思うが、折角の統合なので組織体として再発足哲学が明らかになるようなネーミングがあってよかったと思う。
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