医薬品流通事情-日本とタイ 32
NHSのファイナンス面に移る。
制度が始まった2002年、患者は受診のたびに30バーツ支払わなければならなかった。
“30-baht-treat-all-disease-program”という選挙スローガンそのままで発足した。
簡単に30バーツ政策ともいわれた。
2006年10月31日、これが突如、いらなくなった。
政府によれば、30バーツの徴収コストに見合わないとのことだが、どうもタイ式エクスキューズに思える。
推測。
「共産主義的」操行とタイの外資系企業に揶揄された当時の政府は、救貧政策としてNHS(30バーツ政策)をみると、30バーツそのものが救貧層にとっては参入障壁だと考えたのかもしれない。
底流は、貧困層への参入障壁を失くそうということかもしれない。
タイで巷間いわれていたのは、30バーツ政策が、当時の軍事政権にとってタクシン前政権の「善政」を想起させるのがイヤだったというもの。
ともあれ、30バーツといえども、擬似保険料、参加フィーなので、これがなくなると、NHSは税金のみが財源という制度になった。
この経緯を見て、遥かかなたの老人医療費無料化を行った日本を思い出す。
1971年(相変わらず古い?)、美濃部亮吉という人が当時の社会党を基盤として東京都知事になった。
革新都政といわれた。
この年、行ったのが、老人医療費の無料化。
これが評判よく(アタリマエです、タダになって批判するような人はあまりいませんからね)、全国の道府県に広がり、結果として、1973年、老人福祉法が改正され、国の制度として老人医療費の無料化ということとなった。
美濃部都政は、この無料化だけでなく、都バスの無料化といった施策を打ち出し、当然のことながら、こうした放漫財政は都の財政を一挙に赤字団体に転落させた。
筆者は、老人医療費無料化直後の1975年、厚生省に入った。
爾後、厚生省がやったことは、この窓口負担ゼロという政策を如何に転換するかということにかかっていたといってよい。
財政的に破綻することはわかっており、若年層の保険料、税負担を考えると、とても継続できるものではなかったが、その見直しは想像以上に大変なことだった。
近ごろ、霞ヶ関をぶっ潰せ(この言葉に根をもっていると思われる)と政治家の方々はおっしゃるが、政治家に無料化のやり直しができるとは思えない。
制度改革のたびに、浮上する見直し論も、国会対策という言葉の中で空しく消えて言ったことが何度あることか。
無料化から一部負担へという流れは暇をみて、どこかで書いてみたいと思っている。