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DPC 07

診療報酬体系見直しの必要性の高まり(1)


診療報酬の支払方式に戻る。
具体的には、被保険者一人一日当たりの医療費を50銭、平均診療日数を17.3日として人頭割単価を7円42銭(貨幣価値の激変はかくも凄まじい)が医療費算定の基礎。
この単価に被保険者の数を掛けたものが医療費の支払原資となる。
日本医師会は、毎月政府から支払われた診療報酬を道府県(当時、都はまだありません。古い話ですな。都になったのは1943年)の被保険者数に応じて道府県医師会に配分した。
道府県医師会は管内の医師の診療実績、診療内容を点数化した点数表をつくり、総点数で日本医師会からの配分額を割り算して1点単価を決め、各医師へは稼動点数に応じて報酬を支払った。この当時、1点単価は大体14銭になったといわれる。

大正時代の米の値段は、概ね一升(1.5キログラム)30銭~40銭といわれる。ウェブサイトで、一番売れているとされる米の値段が10キログラム2500円。これだと、1.5キログラムは375円。単純にこの比較を使うと、7円42銭という単価は、1000倍の7000円程度。仮に、1万倍としても7万円。
一人当たり医療費7万円なら今の目でいえば、安いもんだということになる。
現在の医療が高度化、重装備化していることがなんとなくわかるような気もする。
あるいは、当時の日本の国力、医療レベルがいかに卑小なものだったかも容易に想起できる。

究極のまるめは、昭和18年(1943年)唐突に終わる。
一言でいえば、戦時体制化であったからできたことだ。
政府と医師会との契約に従い、団体請負方式で支払われていた診療報酬は、厚生大臣が定めた点数単価表に従い、医師会を経由せず直接厚生大臣から医師に支払われることとされた。

このアバウトな診療報酬表が基本的には、昭和33年まで使われた。
昭和33年、「新医療費体系」として、診療報酬が再構築された。その基本的特徴は診療行為ごとの出来高払い方式。
新医療費体系の基本テーゼは、「モノと技術の分離」。

昭和30年代(1950年代)の初め、医療、医療費保障制度について、根本に立ち返った議論が行われ、現在の制度の基本的な方向づけがなされた。
煩雑になるが、この当時、社会保障制度審議会、七人委員会、医療保障委員といった検討舞台が設けられた。
これらの検討機関からの報告は、今の目からみても、よくここまで議論したものだというものだ。
機会があれば、別の稿でとりあげたいと思っている。

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